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【特集】信越人、スペシャル Vol.3

達人を語る、すなわち、豊穣を語る

「千年の豊穣」とは、巡り来る四季の使者からただ与えられたわけではない。
信越独自の峻烈な寒暖の気候や、人智を超えた自然の厳しさを尊び、受け入れた、先人たちの数千年の営みから生み出されたものだ。この勇気ある信越人たちの知恵と心の賜が、信越の豊穣なのである。数多くの生活文化と、それを未来に引き継ごうと懸命に生き抜く人たち。

信越自然郷は、自然と共生し、次世代を創り出す達人たちの宝庫である。

前澤 憲雄(日本きのこマイスター協会)

きのこ栽培、産業となる

スーパーに並べられているエノキタケ、ブナシメジ、マイタケ、エリンギなどのパッケージを見ると「中野市」という表記が非常に多い。中野は、きのこの一大産地である。特にエノキタケは日本一の生産量を誇る。もともと、エノキタケは農閑期に現金収入を得るための副産物として栽培が始まった。伝統的にきのこを食べていた信越人にとっては、ごく自然の選択だ。エノキタケが農産物として認識されれば地域の救世主になる―そんな読みは当たった。
黎明期、先人は苦難を乗り越えてエノキタケの栽培を確立した。この影には、農業改良普及センターや農協の指導がある。そして、エノキタケをどう知らしめるかに腐心した。都市部の市場に初めて出したときは、「毒きのこを送るな」という苦情も来たそうだ。それまで人工的に栽培されるきのこはシイタケくらいしかなかったから、白くて細いきのこはとても食用として認識されなかった。それでも、飲食店へ「鍋」の食材として提供するなどして徐々に浸透させていった。
その伝統を受け継いだ前澤憲雄さんは、中野市の農協(JA)で普及活動の先頭に立っていた人だ。その後はブナシメジ、ヒラタケなどへと栽培品種を広げていく。「産業として育てていく意識を、JAと農家が共通して持つことができたのが大きい」と、前澤さんは分析する。前澤さんたちは、「もっときのこを」との思いで「信州きのこマイスター協会」を立ち上げた(現在は『日本きのこマイスター協会』)。入門・探究・専攻の3コースを作り、認定講座を開く。試験に合格すると「きのこマイスター」として食べ方の提案を行うことができる。全国から受講者が集まっている。そして、さらに大きな波が来た。
「きのこの効用」である。

人類の健康感を変える

「えのき氷」―2011年から12年にかけてテレビの情報番組で紹介され、大ブレイクした。エノキタケには「キノコキトサン」「β-グルカン」という物質が多く含まれている。これらが悪玉コレステロールを減らしたり抗ガン効果を発揮したりすることが、臨床実験によって証明された。エノキタケをペースト状にすることで、有効成分を効率よく摂取することができる。キューブ氷にして保存しておけば、毎日の料理に使うことも簡単だ。ちなみに、前澤さんは「えのき氷」の名付け親でもある。
「きのこが健康にいい働きをすることは、信越では経験的に知られてきました。医学的なお墨付きをもらうことによって、これを世界に伝えていきます」。漢方薬にも、きのこを利用したものが多い。食用と薬用の両側面できのこをアピールしていく。


きのこを積極的に食べることを、英語で「マイコファジィ=mycophage」と呼ぶ。日本語では「菌食」。これは、何も栽培きのこだけを指す言葉ではない。山で採れる自生きのこも、信越の実りを代表する産物だ。前澤さんは言う。「里山、深山を含め、山を整備していけばきのこの収穫量も増えます。自然が健やかでなければ、人の健康も守れないということですね」。「木の子」とも書くように、山の自然と共生しているのがきのこ。人間は、きのこを媒介にして自然とつながっている。
きのこマイスターは、いわばマイコファジィの伝道者だ。きのこによる新たな健康のモデルが、信越から発信され始めた。これが世界に広まったとき、人類の未来は変わるのかもしれない。

 

高橋 まゆみ(人形作家)

人形は自分への癒しだった

とても美しいひとだ。自然の厳しさに晒されながら健気に生きる人たちへの、限りない慈しみがこのひとの美しさににじみ出ている。人形たちはまんまとこのひとの美しさにしてやられて、みんな元気だ。天を仰ぎ、拝み、孫に頬ずりし、夫婦で笑い合い……。高橋まゆみさんの作る人形は、お年寄りの表情の博覧会だ。歯のあまり残っていなさそうな口元をクシャッとさせ、笑ったり困ったりむっつりしたり。人形たちが置かれているのは、農村風景や古い農家。日本人なら誰もが「原風景」と感じてしまう舞台設定だ。


「長野市内の核家族家庭で育ったから、結婚して農家へ来たときすごく新鮮だったんです」。飯山市の「高橋まゆみ人形館」で、自身の作品に囲まれながら言う。しかし慣れない環境の中、どうしても戸惑うことも出てきた。そこへ、人形が助け船を出してくれた。趣味で作り始めていた人形のモチーフを、周囲に普通にいるお年寄りに。最初に作ったお婆さんの人形を見ていたとき、「人形が何か返してくれた」と感じた。辛かった気持ちがほぐれていった。農村の中で悩んでいた自分を、農村のお婆さんが癒してくれたのだ。皮肉なようだが、それがきっかけとなって今の作風を生んだ。
高橋さんの作品の中には、認知症を患っている人形も混じっている。これには自身の体験も活かされた。「介護は大変なだけではないんです。無垢な笑顔に助けられてもいるんですから」と、振り返る。作品を見て、ボロボロと涙を流す人も多い。心が浄化されるのだろうか。
「人助けをしちゃってるかな」と、高橋さんは照れたように言う。

 

土地と人へ、言葉に換えた慈しみ

7年にわたり、全国を巡回して人形展を開いた。地域によって反応に差があったという。東北などでは飯山と同じく親近感を持たれ、都会では「いつの時代なの?」と訊かれた。昔の人形だと思わ れるようだ。通底しているのは、親しみと懐かしさと郷愁。人形たちは、高橋さんの慈愛を全国に発信し、戻ってきた。「巡回展が終わり、私の『たが』が外れた気がします。今までとは違うことへ挑戦したいとも思います」と、心境を語る。「できなかったこと」への挑戦。難しいモチーフであればあるほど、気持ちがかき立てられる。漁村はどうだろう。南国はどうだろう。衣装や舞台背景は変わるが、おそらく人形の表情は同じだ。なぜなら、その土地へ足を運び、土地の人たちに融け込むことが彼女の創作の第一歩だからだ。土地の自然と生活が皺に刻まれた、漁村のお爺ちゃんや南国のお婆ちゃん。高橋さんの網膜と記憶に残るエッセンスは変わりようがない。

「アジアの僻地、少数民族の村―そんなところへも行きたい」。外国人をモチーフにした人形を見てみたいと、誰もが思うだろう。信越と同じ、慈愛のまなざしが人形を創る。そして、海外でもきっと人気となるに違いない。想像すると、何だかとても誇らしい気持ちになる。何と言っても、ルーツはこの地にあるのだから。

 

敷根 俊(ネイチャーガイド)

妙高に恋している

男性と女性が出会い、一生続く関係となるように、人と土地の間にも同じような出会いがある。敷根俊一さんと妙高の関係だ。もともとは鹿児島生まれ。京都と大阪の大学で学び、広島市役所に勤務していた。それが37歳のとき、ポンと妙高市にやってきた。仕事を辞め、自然の中で暮らすために。
「原点に戻りたい、と思ったんです」と、敷根さんは言う。登山好きの少年は国立公園のレンジャーに憧れ、大学院で造園学を専攻した。就職は広島市役所の公園関係の部署へ。そのかたわら、ずっと山登りを続けていた。市役所の山岳部にも入っていた。自分の軸足は、山に置きたい。そんなことを思い始めた頃、妙高でペンションをやらないかという話が来た。名だたるスキーエリア。ブームだった。シーズン中一生懸命働けば、雪のないときは好きな山登りができる。

そして、一生の伴侶となる妙高へ。本当の伴侶である、隆子夫人も伴って。だが、読みは外れた。妙高に来た直後にバブルが崩壊し、スキー人口は減少の一途をたどる。ペンションにかかった借金を抱え、食べるためにいろいろな仕事もこなした。そんな中で、夏の魅力に気づいた。登山をずっとやってきたから、いろいろな山や自然を知っている。妙高って、実は凄いところじゃないか。「四季のメリハリが強いんです。いきなり雪が降って冬になり、いきなり花が咲く春になる。日本百名山の妙高山と火打山がある。妙高に恋をしている自分がいました」。その恋心は、今でも続いている。しかし、地元の人々にはそれらのチャームポイントが見えていなかった。

 

よそ者だからできたこと

「信越自然郷」のほとんどの市町村は、上信越高原国立公園に含まれている。妙高市も、そのひとつだ。しかし国立公園であること自体、あまり認識されていなかったという。「よそ者の方が、いい所が見えやすいんですよね」。夏の妙高の魅力を説き、山登りやトレッキングのガイドも務めた。そして1999年、仕事としての自然や登山のガイドを行う「妙高高原山里案内人会」の立上げに参加し、2006年にそれをリニューアルした「妙高自然ソムリエ」を設立。妙高の四季を存分にまた安全に楽しんでもらうために、仕事としてのプログラムツアーを提供し始める。自然ソムリエとは、まるでソムリエがワインを薦めるように、訪れる人の目的に合った自然の楽しみ方を提案しアドバイスも行うシステムと組織だ。その過程で「ガイドを育成し、若い人たちの仕事の場を作りたい」という気持ちが強まる。2010年、NPO法人「妙高自然アカデミー」を設立し、若者を中心とした自然・山・里のガイド育成にも力を入れてきた。しかし、育成された自然のプロたちが妙高に定着するには、そこに仕事が発生しなければならない。行政も動いた。気付いた、と言うべきか。全国各地の旅行商談会にも、今まで以上に積極的に出展するようになり、夏場の客足は増えた。合宿地としても人気が高い。それは、雇用の場を確保されることにもつながる。


「私たちは、メンタルな部分でも自然の力を借りて生きているんです。妙高は林野庁から『森林セラピー基地』に認定され、笹ヶ峰高原など6か所がセラピーロードになりました」。敷根さんいわく、「見ただけで『いい所』とわる」場所ばかりだ。癒し効果が注目されている針葉樹や広葉樹が、人々の心を解放する。せせらぎからの水音が、気持ちを洗う。まさに、山と樹木と川が一体となって我々を取り込んでくれる。
外からの人間である敷根さんが、この土地に風を入れた。それが新たな「風土」となる。この風土から芽吹いた若木が、徐々に太くなっていく様子を見守っていきたい。期待を込めて。