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【特集】信越人、スペシャル Vol.2

達人を語る、すなわち、豊穣を語る

「千年の豊穣」とは、巡り来る四季の使者からただ与えられたわけではない。
信越独自の峻烈な寒暖の気候や、人智を超えた自然の厳しさを尊び、受け入れた、先人たちの数千年の営みから生み出されたものだ。この勇気ある信越人たちの知恵と心の賜が、信越の豊穣なのである。数多くの生活文化と、それを未来に引き継ごうと懸命に生き抜く人たち。

信越自然郷は、自然と共生し、次世代を創り出す達人たちの宝庫である。

 

福原 和人(マタギ)

隔絶ゆえの独自文化

“やゝ夜に入れば、約束を変ぜずして、狩人ふたりの内一人訪ね来たり。齢は三十とも見え、いかにも勇猛にして、背に熊の皮を着、同じ毛の銃卵(煙草入れ)を前に置き、鉄張りの大煙管にて煙を吹き出す風情、天晴れなる骨柄に見受けぬ”
―鈴木牧之『秋山記行』

江戸時代末期、越後の文人・鈴木牧之は秋山郷を旅する。そこで見聞きした様々な出来事を『秋山記行』に記した。秋田からやってきた旅マタギたちにも会い、どのようにして猟をし暮らしているかも書き留めている。彼らは獲物を求めて遠くまで歩く。山の幸豊かな秋山郷へもよくやってきていた。村人にも猟を教え、貴重な戦力として育てていた。あるとき旅マタギと秋山郷の娘が恋仲になり、この村で所帯を持って定住した。その子孫が、福原和人さんだ。
「秋田の阿仁町がルーツです」。囲炉裏端で福原さんは話す。江戸時代までは隠れ里のようにひっそりと暮らしていた村落だ。四方の高い山に隔絶され、落人が住み着いたとされる。秋田マタギもそこに溶け込み、山とともに暮らす生活を続けてきた。
「獲物を獲ることだけが目的ではありません」。マタギは、山の恵みを分けてもらって命をつなぐ。だから、自然へ畏敬の念を持たねばならない。そのためにしきたりは厳しく守る。例えば、山へ入る日は女性と口をきかない。山の神は女性なので、嫉妬されるからだ。入山してからは縁起の悪い言葉は使わない。ライフルは命中しすぎるから敢えて散弾銃を使う。自然の摂理に従い、同化し、交感する。敬虔な精神があってこそ、マタ ギは文化として今に続いている。

自然共生のプロフェッショナル

秋山郷の隔絶された地理条件は、今も変わらない。それを逆手に取り、「秘境」という打ち出し方で発信してきた。実際、観光資源も多い。日本百名山である苗場山への登山口としても知られているし、木工やわら細工などの工芸品、山菜、キノコなどの山の幸が豊富だ。もちろん、マタギ文化もその一つ。福原さんが営む民宿には「クマの話とおいしい水」というキャッチフレーズが書かれている。「クマの話」はもちろんマタギの体験談だ(『おいしい水』は、家の裏が水源地であることから)。


「マタギに興味のある人も、結構来るんです。そういう人たちが少しでも移住して定着してくれるといいんですが」。栄村村議会議長でもある福原さんは、人口減に対しても手立てを模索する。移住して来るには生活の糧を見つけなければならない。「四季それぞれで違う仕事、何かしらの働き口はあります」と、福原さんは続ける。自然に関わる作業が、やはり多い。山と共生していくためには、手を入れ木を守らねばならない。それは生態系の保護につながり、山の恵みに帰結する。古来不変のサイクルだ。秋山郷の存続には、人の手が必要なのだ。
外界と隔絶していたからこそ、今も残る色濃い山村文化が醸成された。それを現在・未来にどう適応させ発展させていくか。今こそ、自然と共生してきたマタギの経験と勘が活かされるときだ。

 

久世 良三(サンクゼール代表取締役)

信越の境にあるノルマンディー

ワイン樽がいくつも積み重ねられた醸造庫に、久世良三さんがいた。熟成中の樽からスポイトで吸い、真剣さと慈愛がミックスされた視線でグラスの液体を確認する。まだまだ薄いピンク色。これがあと何年かすると、豊饒なワインとなって出荷される。飯綱町「St.Cousair(サンクゼール)」のワイナリーは、信州のブドウが明日の夢を見ながら眠る揺りかごだ。
今ではあまねく知名度を持つサンクゼールだが、始まりはペンションだった。東京っ子の久世さんは、スキーで何度も訪れた信州に憧れていた。きれいな空気の中で暮らしたいと、借金をして斑尾高原にペンションを開業したのが1975年。まだ何のビジョンもなかった。猪谷六合雄*の『雪に生きる』に心酔し、ただスキー場の近くで暮らしたいとしか思っていなかった。当然ながらさまざまな不協和音が起こり、夫婦は心身ともに疲弊。その頃、奥さんのまゆみさんが作ってペンションで出していたリンゴジャムが、評判となる。転機だった。ジャムの販売は軌道に乗った。
その頃、新婚旅行代わりにフランスのノルマンディー地方を訪れた。二人、レンタカーで各地を回り、その牧歌的な暮らしに魅せられる。リンゴやブドウがなる、牛がいる、レストランでのんびりワインや食事を楽しむ、教会で祈る―こんな場所を作りたいと、強く思った。「サンクゼール」の原型は、ノルマンディーで生まれた。
帰国後、ジャム工場やワイナリー、レストランを建てた場所が、斑尾にもほど近い三水村(現・飯綱町)だった。北フランスのノルマンディーは、北信濃の村に重なった。

 

田舎の豊かさを引き出す料理人

「カントリー・コンフォート(Country Comfort)」という言葉がある。「田舎のゆったりとした心地よさ」の意味だ。「私たちがノルマンディーで見た豊かな暮らしは、田舎でなければ実現できません。でもその豊かさに気付かず、財産を見逃している人が多いんです」と、久世さんは語る。信越の豊さに、東京生まれだがらこそ気付いたのだ。土地の財産を活かし、サンクゼールブランドを生み出した。
「今、世界の流れとして社会は『質』を大切にする局面に入っています。高品質な生活を、田舎から提案できる時代になりました」。その一例が新ブランド「久世福商店」だ。和の食材を、日本中から集めた。各地で発見したいいものを「どうやって売るか」を示した、久世さんならではの方法論が詰まっている。信越の産物を吟味してきた嗅覚を、全国に応用したのである。
優れたシェフは、土地のものを引き出す技に長けている。優れた食材であれば、それだけで料理は成立する。久世さんはさながら三ツ星シェフだ。だからそのもとには優秀な人材が集まる。サンクゼールは今や県内有数の人気企業。都会へ出て学んでいる若い人たちや、自然の中で働きたい人たちの受け皿として機能している。
ノルマンディーを目指して出発したサンクゼールは、信越で独自のポジションを築いた。まさに「サンクゼール」としか言いようのない世界が、飯綱の丘にある。そしてそれは、都市の価値観をもゆるやかに変えようとしている。

 

小林 重弥(小林一茶、七代目子孫)

思い込みを覆す気骨

「俳句には興味がないんです」―この言葉を発したのは、こともあろうに小林一茶の直系の子孫である。信濃町柏原在住の小林重弥さんだ。七代目にあたる。日本人では知らぬ者のいない俳人を先祖に持つ人だ。俳句とは何かしらの縁を持って生きているのではと想像していた。そんな思い込みは、ばっさりと切って捨てられた。
「一茶の子孫と名乗って、先生面して俳句をひねる生き方もあったんでしょうが、それは性に合いませんでした」。小林さんはそう続ける。「ここで豆腐屋をやったり勤めに出たりしていました」。自由でいたい、野性人でいたい、そう思って生きてきた。かくあるべしという路線をよしとしなかった。言葉の端々に、反骨の気概がにじむ。
振り返れば一茶にも、同じような性向が看て取れる。裕福な弟子たちに俳諧を教えることで生計を立てていた。句を量産しても楽とは言えぬ暮らし。諧謔精神に富んだ幾多の句は、そんな境遇から生まれた。
優しげな句からときおりはみ出る、反骨の手甲に包まれた握り拳。こんな句もある。

 

づぶ濡れの大名を見る炬燵かな

「大名」は、大名行列。冷たい雨に濡れそぼり歩を進める厳めしい武士たちを、ぬくぬくと炬燵にあたりながらのぞき見している。権威への反発を、小気味よい諧謔で表す。

 

一体感ある一茶像を形づくりたい

俳人には「漂泊の旅」が付きものだ。一茶も例外ではなかった。故郷をあとに江戸に出て、西国を回り、江戸に戻ってからも房総などを巡って俳諧を教える。柏原を終の棲家と決めたのは、すでに齢50を迎えていた。江戸で自らの一門を成す願望が叶わなかったから、かもしれない。
「一茶はとても頑固な人だったんではと思います」。土地では浮いていた、と小林さんは評する。「柏原へ帰ってからも変人扱いされていた。弟子はほとんど飯山や長野近辺。食べるためにそっちの方を回っていたんですね」。
一茶研究についても、一言持っている。一茶は親の言うことを聞き、真面目に勉強した子供だと小林家では伝えられてきた。ならば、その父親はどんな人物だったかをもっと掘り下げるべきだと。
「一茶文学の研究者はたくさんいるのに、歴史を知ろうとする人はいない」と小林さん。黒姫から柏原に出て、土地を拓いて中農となり一茶をもうけた。そんな先祖や父親をもっと知ることで、一茶像は立体感を持つ。
一茶の手足は大きかったと伝わる通り、小林さんの手足も大きい。骨太な、反骨の気概。一茶の遺伝子は、信濃町で確実に脈打っている。